目白御殿!(旧田中角栄元総理邸)消失(驚)

なんと旧田中角栄元総理邸が全焼!!!!!https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240108/k10014313721000.html

今から、凡そ50年前ラジオ大阪の東京支社で国会担当記者として毎日、国会衆議院3階にある「民放記者クラブ」に通っていた頃。一度だけですが、普段閉ざされていた目白御殿の大きな観音開きの門扉が大きく開かれた日がありました。

当時の総理官邸前ロータリーで組閣のテント村取材中のスナップ写真。25歳(現総理公邸)

1978年10月 当時の 鄧小平副総理が、中華人民共和国の国家指導者としてはじめて日本を訪れ,日中平和友好条約相互批准書交換式に参加したのです。

この日中友好条約に大きな役割を果たしてくれたのが田中角栄元総理だと、ロッキード事件の裁判中でしたが「中国は井戸を掘ってくれた人の恩を忘れる事はない」と。10月24日早朝!国賓として来日していた中国の鄧小平副総理が、当時刑事被告人だった田中角栄元総理の目白御殿を訪問したのです。その時に沢山のマスコミが取材に駆け付けたのですが、私も加盟していた内閣記者会から取材パスを準備してもらって初めて目白御殿を訪問しました。田中角栄元総理の向かって右肩越に頭が写っているのが私です。頑張ってラジオの命であるマイクはしっかりと田中元総理の向かって左側から私の差し出しているマイクも写っています。

当時の私は全く知らなかったのですが、後日大阪に住んでいた両親から掲載されていたこの「週刊文春」を貰い、驚いた記憶があります。(1978年11月9日号) この時の大豪邸「目白御殿」が消失するとは。。。。ニュース映像でも分かったと思いますが、住居以外のお庭とか、車寄せのスペースなど、本当に御殿だなと思いました。                     

当時は「三角大福中」と言われた派閥の大ボスがいた時代で、なんと!若者向けの週刊誌「平凡パンチ」にも政治ネタが掲載されていました。安部晋太郎氏の向かって右側からマイクを出しているのが当時の私です。(1980年7月21日号 平凡パンチ)

当時の中選挙区から小選挙区になったからか?どうも政治家の世界もなんか。。。変な感じがします!私はラジオ大阪の東京支社時代。ちょうど福田政権の最中に赴任し、前代未聞の自民党党員選挙から大平政権が誕生!そして、あの40日抗争が始まり、まさかの内閣不信任案が可決されハプニング解散!W選挙の最中に大平総理が急死され鈴木政権が誕生するまで東京支社にいました。今、思い返しても凄い時代でした。当時のバイブルは戸川猪佐武さんの『小説吉田学校』日本の実録政治小説なので興味のある方は、無茶ワクワクする本だと思いますのでお勧めです。なんか事件事故の多い辰年の始まりですが、楽しい事もきっとある。  

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この記事を書いた人

上野 公嗣(うえの きみつぐ)
1952年10月11日生まれ
新卒で1975年に大阪放送株式会社(ラジオ大阪)入社。記者クラブ・制作プロデュースなどを経験。吉本興業関係者・所属芸人とも多数親交を深める。
定年後、2008年に吉本興業ホールディングスへ転職。「住みます専務プロジエクト」近畿ブロック代表、京都国際映画祭実行副委員長、よしもとアートエンタテインメント株式会社社長を歴任。アート部門の創設・企画実施や人材発掘に尽力する。コロナ禍においてもアート・芸能の可能性を拡大し続け2023年に退職、独立。

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